アンドレイ・タルコフスキー『惑星ソラリス』

目次

睡眠導入剤的映画がみせる悪夢

⒉あらすじ

⒊潜在意識が暴露される恐怖

⒋改ざんした記憶が引き出される

⒌消えない罪悪感

⒍悪夢によって対峙させられた潜在意識

 

 

睡眠導入剤的映画がみせる悪夢

 『惑星ソラリス』(1972年、ソビエト)は、アンドレイ・タルコフスキー(1932-1986年)監督の長編SF作品です。2時間45分もの長い上映時間中、一度も眠らないで見続けられる人は少ないのではないかと思います。というのも、つい寝てしまっていたということが多発するため、タルコフスキーの映画は睡眠導入の効果があるとよくいわれているからです。眠くなる映画といわれるとつまらない作品と誤解されてしまうかもしれませんが、映像、リズム、音響がなんとも心地よいのです。冒頭は、木の葉が流されていく透明な水底に水草がゆったりと揺らいでいるショットで始まる。光を反射する水のゆらめきと硬質なせせらぎの音、鳥の声という自然のリズムに気持ちを奪われていると、バッハのコラール・プレリュードの電子化されたオルガンの音色が重なってくる。それらがとにかく美しく、子供の頃に体験したことがあるようにどこか懐かしく、心の深いところに響きわたるのです。

 宇宙空間を舞台にしたSF小説が原作になっていますが、宇宙を冒険したり異星人と交流する場面は一切ない。宇宙ステーションに派遣された3人の科学者のギバリャン、サナトリウス、スナウトの目の前に、本来いるはずのない超自然的な存在たちが現れる。科学者たちが「客」と呼ぶそれらに、悪夢を見ているかのように苦しめられる。タルコフスキーの催眠効果で眠りに誘われるうち、見ている人は彼らの悪夢を追体験することになる。

 

⒉あらすじ

 プラズマ状の海に覆われた惑星ソラリスを探索する宇宙ステーションに、ソ連当局からミッションを与えられた心理学者のクリスが派遣される。クリスが到着すると「客」に苦悩した科学者のギバリャンは、クリスに謎めいたメッセージを残し自ら命を絶っていた。ソラリスの海は、人間の頭脳から記憶の一部を選び物質化する、つまり人間の潜在意識を実体化する有機体だったのである。やがてクリスの部屋に「客」として亡妻ハリーが現れる。自殺したハリーは、ソラリスの海によってクリスの潜在意識から再現されたコピーなのであった。ハリーのコピーはクリスを愛するようになり、クリスも本物の妻ではないとわかっていながらも愛し始める。クリスは夫として、また科学者として実体のない偽物の妻に惑わされて苦悩を深めていく。

 

⒊潜在意識が暴露される恐怖

 宇宙ステーションという逃げ場のない密閉空間で、科学者たちは自身の潜在意識が目の前に形となって出現したことに怯えている。サナトリウスの部屋では幼い男児が無邪気に遊び、ギバリャンの遺体が安置されている部屋には水色のワンピース姿の少女が吸い込まれるように消えていく。彼らと「客」がどのような関係にあったのか、また過去に何があったのかという具体的な説明はされていない。だが、これまで潜在意識に押し込んでいた「客」を狼狽しながら必死に隠そうとする彼らの姿からは、はっきりとした恐怖が感じられる。科学者たちは、「客」から逃げることもコミュニケーションをとることもできず、精神的に追いつめられていく。

 

⒋改ざんした記憶が引き出される

 クリスも他の科学者たちと同様に初めは亡妻ハリーの存在に恐怖を感じ、ハリーをロケットに乗せて宇宙空間に捨て去ろうと試みたりする。だが、やがて「客」であるハリーと親密なコミュニケーションをとるようになる。

 ハリーのコピーは、クリスとの結婚生活で思い出せない部分がある。クリスは記憶をたどりながらハリーと話しているうちに、幼い頃の父母との幸せな生活や、後年に一転した母の孤独な姿がよみがえり、そんな母とハリーがよく似ていたことに気付く。クリスは、心の奥に閉じ込めていた過去の出来事を徐々に思い出し、その記憶が修正されていくのである。例えば、君はあの女性(クリスの母)を知らないはずだというクリスに対して、ハリーは、あの女性は私を嫌って家から追い出したのではないかしらと確認する。さらに、クリスが家を出て行って戻らなかったことについてハリーがたずねると、君が望まなかったからだとあやふやに答える。クリスは自分の語る過去の記憶が、いつの間にか事実だと思い込もうとしていたものであったことをハリーとの対話によって気付かされる。客観性を重視する科学者のクリスであっても、一人の人間としての記憶は主観的に改ざんされたものであったのである。

 

⒌消えない罪悪感

 愛し続けることができずに逃げ出し、そのせいでハリーが自殺に至ったという事実に改めて気づき、クリスは罪悪感にさいなまれていく。だが、潜在意識にある罪悪感と向き合ったとき、初めてクリスは本当にハリーを愛し始めるのだ。そのように愛し直すことで自分の罪悪感を消そうとしたのかもしれない。その後、ハリーは自ら存在を消失させたため、クリスは罪を償うことができないまま残された。

 宇宙ステーションに乗船している科学者たちも、潜在意識になんらかの罪悪感を抱えていたのではないだろうか。クリスのように記憶を改ざんしたり、あるいは記憶自体を消し去り罪悪感を自覚しないで日々の生活を生きてきたのかもしれない。

 このようにクリスや科学者たちは苦しんでいるが、決して「客」たちは彼らに不満を訴えたり、悲しい様子を見せたり彼らに襲いかかるわけではない。いつも通りの自然な振る舞いで彼らに近づいているだけである。子供が遊んでいる、ワンピース姿の少女が軽やかに歩いている、妻が自分の側にいてくれるのは、本来なら心癒される嬉しいことであるだろうが、彼らの目にはそのように映らない。彼らの記憶の中にいる「客」たちは、「私を見て」とコミュニケーションを求めているだけのように見えるのだが、罪悪感から直視することができない。

 

⒍悪夢によって対峙させられた潜在意識

 『惑星ソラリス』は、潜在意識に対峙させられた人間はどうなってしまうのかという問いを突きつけている。ソラリスの海によって自身の潜在意識をみせつけられ、科学者たちはこれまで心の奥底に押し込み回避していた罪悪感に、対峙せざる負えなくなる。あるものは耐えきれず自殺し、あるものは科学を懐疑するようになる。潜在意識が顕在化することは、その人間の人生を大きく変えてしまうほど恐ろしいものであるのだ。だからこそ人間が生きていくためには、潜在意識が必要不可欠なものであると感じさせられるのだ。

 人間が自覚している顕在意識と自覚していない潜在意識を「陽」と「陰」とするならば、科学が優先する事実など顕在化している「陽」に対し、目には見えないが潜在している「陰」というものの存在の重要性を気づかせようとすることが、『惑星ソラリス』のテーマではないかと考える。